「正しいこと」と「本質」

つい先週終わってしまったけど、京大博物館の展示「地図・温故知新」。京都大学に所蔵されている数千点の地図資料から、40点あまりを厳選して展示したもの。2回も行ってしまった。
興味深いので、展示の案内文より抜粋する。

たとえば、世界や日本の地図をイメージしなさい、と言われたとき、あなたとあなたの友人との間に、その粗密は別とすれば、それほどおおきなズレはないのではないか。そしてそれはおそらく、学校で習う地図、つまり、測量と投影法に基づいた「正しさ」を希求した地図に依拠して形成されたイメージだろう。

しかし、そのイメージが果たして過去の人々とも共有できるか、と言えば、決してそうではない。たとえば江戸時代中期に作られた世界図や日本図は、今とはかなり異なった図像を載せている。

どちらが「正しい」地図か、と問うならば、当然、現在の地図である。しかし、そのような問いは、地図が常に「正しさ」を要求されていた、という誤った認識をもたらすにすぎない。地図に何が求められていたのか、というのは時代によって変わるのであり、その意味で、地図史は時代ごとの文化・社会を鋭敏に反映したものとなる。

まさに案内文の通り、「正しさ」とは「現実」「本質」とは何なのかを深く考えさせられる興味深い展示だった。展示されていた16世紀〜19世紀の地図は、どれも「正しく」はない。しかし、その時代の世界観、使い手に必要な情報、美学やユーモアが生き生きと写し出されたものばかりだった。中でも僕のお気に入りは、鍬形蕙斎や鍬形蕙斎といった浮世絵師が描いた名所図や、当時の仏教的世界観を表した天竺絵図や南贍部洲之図。

・・・ところで、これは地図に限ったことではなく、人が世界を見るときの“世界観”や“モデル”といったものの性質の一端をよく表しているように思う。
これは受け売りの逸話だが、例えば、新宿から銀座に行くときに必要なモデルとは何だろう?関東地方の地形図を渡されてもダメだし、都心の衛星写真を渡されてもダメ。前者は範囲が広すぎるし、後者は情報量が多すぎる。かといって、新宿から銀座までの道路地図を渡されても、車じゃないから意味ない。必要なのは都心の地下鉄の路線図。もっと言えば、丸ノ内線の路線図が欲しい。でも、丸ノ内線の路線図は、「正しいか?」と言われると「正しくない」。たとえば駅と駅の間の距離の縮尺はめちゃくちゃで、意図的にデフォルメされている。しかし、新宿から銀座に行くのにこれほど素晴らしいモデルはない。ケースに応じた本質を過不足なく表しているからだ。
“正しい”あるいは“現実”だと思われるもの、あるいは世の中でそう言われているものと、物事の本質とは必ずしも一致しない。展示の内容自体も興味深かったが、僕自身、ものの作り手としての心構えを再確認するよい機会だった。
http://www.museum.kyoto-u.ac.jp/mo…/special/content0036.html